2011年5月25日(水)

核害の街で生きる、ヒマワリを植える意味

環境リスクに対する認識は専門家と市民の間には大変な隔たりがある。今この地は核害の中にあるということを念頭に置いて考えてみる。{「環境リスク論」中西準子、岩波書店}。
 専門家はリスクを年間死亡率という因子で認識する、が、一般市民が認識するときの因子は「破滅因子」「未知因子」だ。破滅因子とは、制御できない、恐ろしい、地球の破壊、致死的な結果、不公平、次世代への高いリスク、削減が難しい、増加しつつあるリスク、受動的、など。未知因子とは、観察できない、知ることが出来ない、遅発性の効果、新しい、科学で知ることが出来ない、などである。実際のリスクとは関係なく、破滅因子と未知因子の要素が強いと、そのリスクは市民にとって受け入れがたいものとなる。
 受け入れがたいとはいうものの、私どもはこのリスクある環境の中で生活していくほかに家族共々生きていく方法がない(郡山市での話だ、それがどうしても出来ない地域もある)。
知ることが出来ないリスクとはいうものの環境放射線量は計測できる。職場にも、各家庭にも、老弱を問わず、サーベイメーターがほしい。これから起こるかもしれない事故でどのような環境汚染が新たに加わるのか、その予測も知りたい(事故が起こってほしいとは思わないが、事故は絶対に起こらないとはもう言わせない)。
 削減が難しいとは云いながら学校などでは校庭の放射性物質を減らそうという努力がなされている。地表面を削る方法だが、画期的な方法と思う、残土の処理が大変だとも聞く。絞りに絞った郡山市民の叡智を出したい。
ささやかながら、ヒマワリという植物の植生を利用し微量なりとも地表面のセシウムを集積し合理的に処理しようという試みを始めた。合理的といっても起死回生の方法ではない、この環境にあるセシウムは地下に埋めるか、空中に、それも世界的広さで拡散させるか、あるいは発生源に戻すか、そんな方法で放射能が減衰するのを待つしかない。ヒマワリが枯れる秋まで論議が続く。
 郡山では比較的放射線量の高い地域にある私の家の庭は今夏ヒマワリの花であふれる。
その根は少し深い穴を掘って庭に埋めようと思う。そしてまた来年も、その次の年もヒマワリを咲かせるつもりだ。これが核害の街で生きる市民の怒りの象徴であり、子々孫々に伝える反原発の思想だ。
 

 

桑野協立病院 院長 坪井 正夫

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