2011年9月29日(木)
渡邉千鶴子さん (福岡民医連:福岡医療団)
1週間と言う短い期間でしたが、お世話になりました。支援への手上げをした理由として、子供さんたちが放射能汚染の少ない地域で生活をするために、職員さんへの休暇保障と言うことを聞いたからです。心身ともに成長段階にある子供への支援が微力ながらできればと、思ったからです。
11日日曜日に郡山に降り立った時は、街並みなど何の変化も感じませんでした。ところが、郡山市役所のガラス窓は多数が割れ、ベニヤ板が張り付けてあり、役所としては機能できていない状況であることを聞きました。支援途中で買い物に行った時も、タクシーの女性ドライバーさんが「手間暇かけて育てた米だし、自分たちは先がそんなに長くないから、自分の家で作ったものを食べているけど、孫には、他県のものを食べさせている」と言っておられたことは、今でも忘れられません。
支援先は、桑野協立病院でしたが、患者さんへの直接ケアをしなくなって20年近くなるため、かなりの不安はあったのですが、職員さんたちの気さくさと温かさ、方言の温もりで1週間を無事に終えることが出来たと思います。
病棟の中は、外科の患者さん、ケモの患者さん、ターミナルの患者さん、全介助の患者さんなど多彩で、本当に忙しい毎日でした。そんな中でも、看護部長さんを中心に何度も集会を開き、みんなで乗り切ろうと確認し、1人の退職もなかったとのことを聞き、すごいなあと思いました。そのことを昼休みに話していると、「その時は、福島から出たいと思ってもガソリンが無く、出ることが出来なかった」と言っておられました。この言葉を聞いた時、胸が熱くなりました。ある看護師さんは、「来週から2週間、子供を熊本の親戚に預ける。」とも言っておられました。家族がバラバラの生活・子供も慣れない土地での生活・友人と遊べない状況など、現象としては何も変わらないようだが、それぞれの家庭や心の中には計り知れない多くの不安や悩みを持っておられることを感じました。
たった1週間の期間だったにも関わらず、院長先生からは学習会を支援者3人だけのためにしていただいたり、震災当初の写真を見せて頂き大変な状況だった様子が手に取るように解りました。同時に、民医連や生協の物資と人の応援のすごさ、団結力や繋がり・絆を強く感じました。
支援最終日には、病棟のみなさんから「感謝状とお一人おひとりからメッセージカード」を頂き、そんなに役にも立たなかったのに、みなさんのお気持ちがとても嬉しく、これは民医連で仕事をしてきた私の証であり、宝物にしたいと思います。本当にお世話になりました。有難うございました。これからも、桑野協立病院のみなさんとは繋がっていきたいと思います。