2012年3月 5日(月)

健康に生きていくために放射能に立ち向かう!

医療生協さいたま機関紙「けんこうと平和」3月号から転載させて頂きました。

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毎日のように届いた支援物資
 
 近くにあった洗面器で患者さんの頭を守る、点滴がはずれないように押さえる―2011 年3月11日、私たちの桑野協立病院では看護師たちが、必死で患者さんを守っていました。翌日には、約六〇?離れた福島第1原子力発電所の1号機建屋で水素爆発がありましたが、そのことへの不安よりも、地震への対応で精一杯というのが実状でした。薬も消毒薬もおむつも何もかもが手に入りにくいという状態を支えたのは、日本医療福祉生協連や全日本民医連からの支援物資でした。13日の深夜から、毎日のように全国からトラックが到着し、地域の人たちも、「この病院はいったい何なんだろう」と驚いていたようです。
 支援物資は、地域の避難所や福祉施設、社会福祉協議会に届けると同時に、震災後の対応のために病院に寝泊まりしていた職員の生活をも支えました。彼ら自身も被災者でした。

 

全体集会を開き、とどまることを選択
 
  地震や津波による被害は目に見えるので明らかですが、問題は放射能の被害です。見た目は何も変わらないので、被災者の中にも温度差がありました。私自身、放射能について特別な教育を受けていたわけでもなく、事前の認識があまかったといわざるを得ません。事故直後に子どもを避難させた若い医師から、このままでは家族一緒に暮らせないと退職の申し出があり、ようやくこれは大変なことだ、と実感しました。
 多くの職員が、親戚や友人から、「まだ郡山にいるのか。早く逃げなさい」と言われました。私たちも病院ごと避難すべきではないか、という話も出ました。明確な判断基準は何もありません。そこで全職員を集めた全体集会を2回開いて話し合い、行政からの指示があったときは、みんなでまとまって避難するという方針を出しました。幸い、最終的には、退職した職員は数人にとどまりました。
組合員さんが米や野菜を届けてくれたり、教員OB・OGが病院で奮闘していた職員のために学童保育を引き受けてくれたことは、職員にとって大きな救いとなりました。
 

放射能を可視化する学習と情報発信
 
 原発事故の後、私たちは、学習と情報発信にとりくんできました。線量計で、職員が家の周りや子どもの通学路の放射線量を測定して放射能を可視化し、支部で汚染マップを作り、町内会やPTAに届けました。職員自身が放射能に関する学習を始めるとともに、町内会、学校、役場などにも講師を派遣しました。学習会は8月までで約60カ所に及び、約5千人が参加しました。医療生協の活動への信頼感があったからこそだと思っています。
 昨年11月、「ベラルーシ・ウクライナ福島調査団」に加わり、チェルノブイリ原発から30?圏内のコマリン地区に視察に行きました。この地区の学校には、食品の放射線量を子どもたちが測ることができる器械がありました。また地域住民約4千人の健康管理をしている診療所には、住民がいつでも内部被ばくの検査をすることができるように、ホールボディカウンターがありました。こうした環境が整ってこそ、健康に生きるという権利を守ることができます。郡山医療生協でも、さっそく食品の放射線量測定器を手配し、今月中に届く予定です。
 ホールボディカウンターは、郡山市でも2台導入する予定ですが、これでは住民全員のチェックをするには、約20年かかる計算です。この装置は非常に高額であるうえ、医療用機器ではないので、測定をしても診療報酬の対象になりません。それでも組合員をはじめ地域の人々の健康を守るために入手したいと、医療福祉生協連などに相談しているところです。
 原発問題は決して「福島で起きた事故」ですませられることではありません。どこであろうと二度とこうした事故が起こらないように、情報発信を続けていきたいと思っています。検査などで、いったん4月にはすべての原発が止まる予定ですが、うっかりしていると再稼働の可能性がないわけではありません。今、皆さんにお願いしたい支援は、原発を再開させないという強い意志を継続してくださることです。
 

※この記事はインタビューをもとに構成しました。
 

  [以上、原文のまま]

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