2012年3月15日(木)
西村さん(京都民医連:医療法人葵会)
坪井院長、佐藤看護部長 師長室のみなさま、3階病棟の石井師長とスタッフの皆さま、温かく迎えて頂きありがとうございました。たった1週間という短い期間、且つ医療現場を離れて十数年の私がどれだけの支援が出来ただろうかと思っています。
桑野協立病院は、京都とは比べ物にならない敷地内に放射能線量計がありました。その他は何も外観的には震災被害はわかりません。ただ、目に見えない放射能があるだけでした。支援初日、院長先生からの“核公害について”の学習会は、福島で生きていくため、?正しい情報の共有(情報の格差の認識)?教育―特に子供たちに正しい情報を伝える ?検査体制 の重要性を学びました。 チェルノブイリ事故で被害を受けたベルラーシ共和国に行き、この郡山で生きていくため何をしなければならないかを学び講演活動をされていました。民医連の医師として熱い思いが伝わった学習会でした。「人が一生かかって経験する事を桑の協立の職員は一年で経験しました」と話された院長の言葉が印象に残っています。また、3・11震災の時を振り返っての職員さんの貴重な話もその夜の歓迎会で聴かせて頂きました。止まらぬ大きな揺れに「あーこのまま死ぬのかなー」と思い、病室のベッドに走り患者さんの手を握りながら声をかけ、患者さんの頭を洗面器でかぶせた話。子供の安否がわかるまで不安で仕方なかった話。今も子供たちの将来が不安という話。全体職員集会で院長が、「この病院に私たちは留まる! 行政から避難しなさいと言われたら、患者さん達を全員避難させ、最期はテレビ局を呼んでピースするべ!」と話された事が心に残っているという話。病院職員さんや病棟の皆さんは、全国からの支援で励まされながら、毎日必死に笑顔で患者さんと向き合っていました。でも、震災一年目を迎える今、“振り返るのが切ない”と呟かれた看護師さんの言葉からまだまだ辛い!思いが見えました。
患者さんや地域の人たち、自分の家族に向き合いこの福島で桑の協立病院の職員として頑張っている皆さんの姿を目の前で見て、福島以外の私たちは何をすべきかを今後も考えていきたいです。プレゼントに頂いた本、写真とメッセージカード、笑える“張り子のひょっとこ”、あったかーい東北弁と磐梯山、そしてみなさんの支援者への“おもてなしの心”を学ばされた1週間でした。
法人の看護部、職員に支援報告させて頂きます。さっそく療養棟での医療懇談会にも報告時間を頂きました。ありがとうございました!